2001年 九州大学歯学部卒業 |
2001年 医療法人 歯友会 赤羽歯科クリニック 上尾診療所 勤務 |
2004年 福岡県博多区 特定医療法人芳香会 博多歯科クリニック勤務 |
2007年 医療法人英峰会 イターナル歯科クリニック開設 |
歯科治療を続ける中で、この事がいかに大切か、日々気づかされます。 患者様にはとことんお話を伺い、その上でこちらも治療の方法をお伝えして、ご納得頂いた上で治療を進める。これが私の、そしてイターナル歯科のポリシーです。 噛むという機能を維持、回復させることは勿論ですが、審美面、つまり見た目の美しさも考え、一人一人に最適で丁寧な治療を心掛けています。 イターナル歯科クリニックでは常に新しい技術を習得し、新しいシステムを採り入れ、それを極力患者様にご負担の少ない形で提供して参りました。 歯科治療の技術は日進月歩、同じ治療でも早く、シンプルに、そして美しく治せるようにこれからも随時新たな技術、システムを積極的に取り入れて参ります。 そして、わざわざ東京や福岡に行かずとも「イターナル歯科クリニックであればいつも最新の治療が受けられる」、そういって頂ける診療を目指して参ります。
私の実家は「イターナル」という名前のスーパーマーケットでした。患者さんからもよく聞かれるのですが、イターナルとは何なのかというと、英語の「Eternal」(永遠に)のことなのです。通常は「エターナル」と発音されますが、わたしの父が地域で永遠に貢献できる存在でありたいという願いを込めて命名し、これを「イターナル」と表記したためにそのような名前が付きました。
私は小さいころからスーパーの息子として、ひたすら仕事に向き合っていく父の背中を見て育ちました。当時のスーパー、「イターナル」は朝の10時から夜の7時半まで、日曜もなく毎日開店で、たまの休みといえばお盆と正月の3日程度でした。そのため、ほとんどどこにも旅行に行ったこともなく、めったに家族で外食すらしたこともなく、日曜も売り出しのために私や兄弟も手伝いに駆り出されるような毎日を過ごしていました。
当時より私の父は本当に仕事一筋な人間で、何一つ趣味も持たず、悪く言えば面白くない人間ですが、とにかく仕事には不器用なほどにまじめな人でした。朝早くから市場に行って野菜を仕入れてきて、商品の陳列だけでなく精肉場でお肉も切ったりパックしたりもし、様々な商品を業者と打ち合わせをしながら配列し、仕事が終わっても夜遅くまで集計をしたり、新聞広告を自分で作成して印刷し、新聞屋さんに毎週持っていくという生活でした。
そのようなスーパーの仕事にひたむきな父でしたが、実は高校生の時には医療系に進むことを考えていたという話を聞きました。子供ながらにこんなにまじめな父がお医者さんになっていたら、きっと周りの人たちから尊敬されるようなお医者さんになったんだろうなと思ったことを覚えています。そういう思いもあってか、わたしはいつしか受験を意識するようになりました。塾に通うようになり、中学受験を目指し、晴れて当時できたばかりの中高一貫進学校である、弘学館中学校に入学することになったのです。
弘学館は金立山という山のふもとにあり、全寮制の進学校でした。私は中学から高校までの6年間を友人とともに寮生活で過ごしました。私は小学校の頃は自分でいうのも少し恥ずかしいですが、どちらかというと優等生の方でした。学校の授業などはたいして聞かなくてもわからないことなどほとんどありませんでした。
しかし、進学校である弘学館ではそうはいきませんでした。これも自分でいうのは少し恥ずかしいですが、わたしの成績は学年順位でいえば常に下から数えた方が早いような状態でした。授業のスピードも大変速く、テストの範囲も広いうえに頻繁に行われ、まったくついていけずに落ちこぼれに近いような状態でした。
そんな中、友達はというと全国から志の高い優秀な人材が集まっていることもあり、大変頭がよくてどうしてこんなに勉強ができるのだろうと思うような人たちばかりでした。しかもみんな努力を怠ることなく、休み時間も惜しんで勉学に励む人たちばかりでした。そのような環境の中で、私も少しでもついていこうと必死で頑張りましたが、むなしくも大した結果を上げることはできませんでした。ちなみに当時の私はテレビゲームが大好きで、その影響もあってか、将来は工学部に進学して、コンピューターのプログラマーになりたいと思っていました。
しかしこのころ、私の叔父が歯科医師を長崎でやっていました。そのため私の祖父が「お前も歯医者になりなさい」といったことを顔を合わせるたびに言われていました。叔父もまた歯科医院を経営し、たくさんの患者さんに慕われているようで、私の憧れの存在でした。そして父の昔は医者を目指していたという話も重なり、いつしか私は歯医者になりたいという思いを抱くようになりました。しかし、学力の方はそれに伴わず、初めての大学受験は九州大学歯学部専願で受験したのですが、あえなく不合格となり、予備校生となることを余儀なくされました。
大学受験を失敗した私は福岡の河合塾に行きました。ここでも実家を離れ寮生活を送りました。大学受験に失敗した私は、このままではいけないと思い、さらに気合を入れて勉学に励みました。高校の頃も少しは頑張っていたのかもしれませんが、それをはるかに上回る勢いでがむしゃらに勉強していたと思います。
その成果は徐々に表れ、たびたびおこなわれるテストでも判定は徐々に良くなり、1浪にて無事に念願の九州大学歯学部に合格することができました。大学時代は何よりもサークル活動を楽しみました。私は高校の頃から軽音部に所属し、友達とバンドを組んでいました。私のパートはドラムでした。大学でもその経験を活かしてバンドサークルに入りました。九大歯学部の同期の友人の中に、たまたまギター、ベース、ボーカルの経験を持つ者がいて、そのメンバーでバンドを組み、大学の授業が終わるとスタジオに行ってセッションに明け暮れるような生活でした。学園祭だけでなく、サークル主催の合同ライヴなども大いに楽しみました。歯学部生だけで組んだバンド仲間とは様々なことを語り合い、ただ単に楽しむだけでなく、将来の方向性についてもいろいろと考えさせられるものがありました。またサークルには他の学部や九大以外の大学生も参加していて、歯学部にとらわれない様々な考え方や交流も経験することができました。
そのような学生生活を過ごしながら日々は過ぎてゆき、私も卒業が近づいてきました。歯学部での5年生~6年生くらいは臨床実習として大学病院の様々な科を回ったり、大学外の臨床実習施設での見学などもありました。また、現在は大学卒業後の研修医制度というのが義務付けられていますが、私の時は研修医制度は希望制で、卒後は就職と研修医の好きな方を選ぶことができました。私が実習中に感じたことは、研修医をやっていて本当に早く一人前になる技術と知識を身に着けることができるのだろうかという疑問です。大学に残っての研修医を否定するつもりはありませんが、当時の私が感じた研修医の日常はあまりにもゆったりとした雰囲気で、一日に1~2人の患者さんを見ることができるかどうかといった感じで、学生の延長のようなものにしか見えませんでした。
十分な知識や技術がないうちに実際の臨床の場に立つということを肯定するつもりはありませんが、早く一人前になるためには少しでも早くたくさんの患者さんを診る以外に方法はないというのが当時の私の考えでした。そして私は大学を卒業すると、当時日本一規模が大きかった、関東にある赤羽歯科というところに就職することにしたのです。
赤羽歯科は東京北区の赤羽というところに本部を持ち、その他新宿、池袋など、東京に4件、埼玉に5件の分院を持ち、ドクターだけでも総勢100名近くを抱える、とても規模の大きな歯科医院でした。私はその中で埼玉県の上尾にある診療所に勤務することになりました。この分院だけでも当時16名のドクターが在籍し、同期入社のドクターだけで私を含めて4人がいました。
ここでは私が望んだとおり、たくさんの患者さんが来院され、毎日目が回るほどの忙しさの中で診療を行うことになりました。右も左もわからない状態で次々と患者さんが来院される中、たくさんのドクターの治療のアシストにつきながら様々なアドバイスを受け、どんどんと積極的に診療を行うことができました。そして1年もすればほとんどの処置は一人である程度できるまでになりました。しかし、そのような中でもやはり医院の方針というものがあり、私がもっとこういう方法を行った方がいいのではないかと思ったり、新しくこのような機材を使いたいと思ったとしても、自由にそれができるわけではありません。より効率のいい方法を求めて、私は歯科雑誌を読み漁り、興味を引いた歯科の講習会にどんどん参加をして新しい技術をや考え方を習得するのに没頭しました。それにつれて身に着けたこと、学んだことを思いっきり臨床の場で発揮したいという思いが強くなり、卒後3年目にして開業を目指して赤羽歯科の退職を決意しました。
しかし、開業とはそう簡単なものではありません。業者と開業に向けて打ち合わせを繰り返し、設計士も入れて医院の図面まで引いたのですが、資金繰りや様々な都合の結果、やむなくこの時点での開業は無理だと判断し、再就職することを決断しました。
再就職先としては、博多にある博多歯科クリニックというところを選びました。ここもドクターが10名以上在籍する大変大きな歯科医院でした。正直なところ、赤羽歯科にいた時も必要なことかもしれませんが、ある程度売り上げやノルマを口うるさく指導管理される現状がありました。博多の中心にあり、規模の大きな医院なので、ここでもそれなりに売り上げについて厳しいことを言われることを覚悟していたのですが、この私の心配は逆に外れ、売り上げなどとは関係なく、患者さんにとって自分が信じる良い治療を追及していくことをある程度自由に認めてもらえる環境でした。
もちろん何でもやりたい放題というわけではありませんが、実力も経験も豊富な院長の下、様々な経験を積ませていただきました。そうしながらも開業をあきらめることなく、少しずつ準備を進めてまいりました。そして約3年勤務したのち、再び開業に向けて一歩を踏み出しました。
2007年7月、スーパーマーケットイターナルのすぐ隣にイターナル歯科クリニックを開業するに至りました。父の地域への思いも込めて、「イターナル」の名前を引き継ぎ、私も地域で永遠に貢献できる存在でありたいという志を抱きました。開業当初は患者さんの来院数も少なく、1日に数人しか来院されない日も続きましたが、私の信念のもとに、きちんと説明をして患者さんの希望を最優先させる治療を続け、スタッフの協力もあり、徐々に来院数は増えていきました。
開業当初は診療台3台、スタッフ3名から始めましたが、診療台も4台、5台と増やしていき、それでも手狭になってきたため、隣のスーパーの一部を改築し、診療台も8台に増やして移転を行いました。そして現在では当初開業したイターナル歯科クリニックを別館、スーパーの中に移転した部分を本館とし、診療台数は13台、総スタッフ数では30名を超えるという大所帯となって診療を続けています。
イターナル歯科クリニックを開業当初より私がこだわっているのは、
「患者さんに納得のいく治療を受けていただくために、十分な説明を行う」
「痛くない診療を心がける」
「負担の少なく、効率の良い治療を常に追求する」
「最新の設備、技術を導入し続ける」
「衛生管理、安全面にも徹底的にこだわる」
「スタッフみんなで、また来たくなるような医院づくりをする」
といったことです。このような信念を胸に、これからも決して歩みを止めることなく、よりよい診療を目指して日々研鑽に励んでいきたいと思います。
「イターナル歯科クリニックに来院して良かった」そう言って頂けるような丁寧な対応を心掛けています。
歯医者さんは痛い、怖いなどマイナスイメージが強いと思います。皆様が少しでも安心してお越しいただけるような空間作りを頑張ります。
来て良かったなと笑顔で帰って頂けるよう患者さん目線で診療できるよう心掛けています。
笑顔で健康に毎日を過ごすことができるように、お口の中の健康からサポートさせていただきます。 患者様一人ひとりに寄り添い、患者様に安心して通っていただけるように心がけております。
皆さんがイターナル歯科に通っていて良かった!と思って頂けるよう、笑顔で分かりやすい説明を心掛けています。わからない事があればお気軽にご質問ください。
口腔内の環境を整えるお手伝いをさせて頂くとともに、患者様にとって安心できる存在になっていきたいです。日々勉強・向上を心掛け、成長していきたいと思います。
みなさまに寄り添いながら、歯を守れるよう 精一杯お手伝いさせて頂きます。
患者様がどんな悩みを抱えているか、どんな症状なのか、どう伝えればいいか分からないと思っているような事をお話しの中で汲み取れるよう心がけています。
患者様とのコミュニケーションを大切にし、イターナル歯科に来てよかったと思ってもらえるように頑張っていきたいと思います。
来院される患者様の恐怖や不安を取り除き、安心して治療をうけていただけるよう笑顔で勤めていきます。
まだまだ歯医者さんを怖くて行きたくないと思っている方も多いと思いますので、出来る限り笑顔でまた行きたいと思ってもらえるような明るい対応を心がけています。
皆さんが不安なく来院できるよう、笑顔で一人一人に寄り添う事を心掛けています。
不安や恐怖を少しでも取り除けるように 笑顔で会話をすることを心掛けています。 お悩みや分からないことがありましたら、
不安な気持ちを少しでも和らげる事ができるよう笑顔で 応を心掛けています。
医療法人英峰会イターナル歯科クリニックは「九州大学歯科医師臨床研修プログラム協力型施設」として厚生労働省より指定を受け、佐賀の地から全国に羽ばたく歯科医師を育成・輩出しています。
当院は質の高い診療を実施するため、オンライン資格確認や電子処方箋のデータ等から取得する情報を活用して診療をおこなっています。